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今月のみ言葉

「男も女もありません」 

 ルカによる福音書8章1〜3節

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 ルカによる福音書8章1〜3節にイエスの宣教活動に加わっていた人々についての報告が記されています。

 特にイエスの宣教の旅に同行し、イエスに奉仕していた女性たちについての報告が記されています。
 「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」

 こうした何気ない紹介の文書ですが、この文章は当時の社会的慣習からするとかなり違和感を持たれる文章であったと思われます。なぜなら、旅するイエスに同行する人々の中に、女性たちがいるということは当時の慣習では考えられないことであったからです。

 当時の社会的状況を記した本の中にこのようなことが記されていました。
 「女性が、慣習的に認められる理由、例えば祭りや家族の訪問、仕事、そうした理由以外で旅に出ることは社会的常識から逸脱したものと考えられていた。家の責任を放棄した女性には禁制の性的行為の疑いがかかり、大変逸脱しているものと考えられることになったであろう。」

 女性は家にいることが常識とされていた社会的な視点からは、イエスのなさり方は驚くべきものであったのだと思います。

 イエスは女性であれ男性であれ、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、奴隷であれ、自由人であれ、イエスとの交わりを持とうと望む人々を、当時の社会的な視点から見るのではなく、神の視点から見出し続けられたのだと思うのです。

 神は、ご自分が創られた人を一人一人大切にしてくださっている。やれ男だ女だ、社長だ平だ、どこの国の人だといって、人間を包んでいる包み紙を見るのではなくて、包み紙の中にある、一人の生命をご覧になるのです。神の視点には差別はないのです。この神の視点からイエスは人々を見るのです。

 神は人が苦境にある時、苦しむその一人の生命に眼差(まなざ)しを向けられるのです。そして手を差し伸べてくださる。人が喜んでいる時、その喜ぶ一人の生命と共におられるのです。


 性別や国籍や地位といったものをご覧になになって、手を差し伸べようとか手を出すのをやめようとかいうことはなされない。この神の視点をイエスは持っておられるのです。

 ですから、神の大切にされている一つの生命を癒(いや)し、癒(いや)された女性たちが、イエスの旅に同行し、イエスに仕えたいと決断するとき、その決断を受け入れられたのでしょう。そして、女性たちは、イエスに同行することができたのです。

 イエスを信じて生きる。それはわたしたちがイエスの同行者となることであり、同時にイエスに同行者となっていただくことです。そして、イエスを見つめ。イエスに聞き、ことあるごとにイエスに立ち返ってゆくのです。

 こうして、わたしたちは、イエスの視点に与(あずか)り、かけがえのない一人の生命を包む包み紙ではなく、生命そのものを大切にする者となってゆくことができるのではないでしょうか。そこにわたしたちの人生という旅の豊さが生まれてくるのではないでしょうか。
 

 
 

 


 

 

 


 

 

 

 

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