日本キリスト教団
浦安教会
今月のみ言葉
「イエスの赦しの中で」
マルコによる福音書3章20−30節
新約聖書マルコによる福音書3章20−30節にイエスとユダヤ教の律法学者との論争の出来事が物語られています。
イエスはガリラヤ湖周辺地域で宣教活動をされていたある時、イエスが活動の拠点としていたカファルナウムという町にあった一件の家に入られます。するとそこに大勢の群衆が詰めかけて来ます。その中にユダヤ教の律法学者が混じっていました。
彼らはイエスに対して「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言っていました。」
そこでイエスは彼らに反論して語られます。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」
このイエスの反論は至極当然なものです。「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」などというのは、仲間割れ以外の何ものでもなく、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」というような理屈はそれ自体が矛盾しているということなのでしょう。
さらにイエスは、続いてこう語られます。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆(ぼうとく)する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。」と言う言葉は、非常にラディカルな言葉です。まさにイエスだけにしか言えない言葉なのではないでしょうか。
自らを十字架にかける人々に対して「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と祈られたイエスにしか口にすることのできない言葉だと思います。
しかし、「全ての罪は赦される」と宣言しながら、次いで「聖霊を冒瀆(ぼうとく)する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と語られるのです。
「全ての罪は赦される」というのと「聖霊を冒瀆(ぼうとく)する者は永遠に赦されない」というのと一見矛盾した言葉のように聞こえます。
けれどもここでイエスが言われていることは、全てを赦すと言われたイエスの言葉とその働きを否定することが、聖霊を冒瀆(ぼうとく)することになるということなのではないでしょうか。
無条件の神の赦しを否定する、それはその人にとって、全てを赦す赦しということ自体が成立しなくなってしまうということなのでしょう。
イエスはその身をかけて「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される」という言葉を紡ぎ出してくださいました。また、神の無条件の赦しという御心を現してくださいました。このイエスの言葉を信じるところに、言葉の実が与えられるのです。
イエスを信じる。それはここで語られている「全ての罪は赦される」というイエスの宣言をしっかりと受け止めて、この言葉を軸にして自らの生を築いてゆくことなのではないでしょうか。