top of page

 

今月のみ言葉

「神を信じる者として」 

 出エジプト記22章20-26節

 かつてイスラエルの民は寄留の民としてエジプトで生活をしていました。しかしその生活は穏やかなものではなく、奴隷のように使役される生活でした。そうしたイスラエルの民を神はエジプトから導き出し乳と蜜の流れる土地といわれていたカナン(パレスチナ)へと導くことにされました。この旅を出エジプトと呼んでいます。

 そして、この出エジプトの旅の途上、イスラエルの民はシナイと呼ばれる山の麓へと連れてゆかれるのです。そこで神からの戒めが与えられます。その一つが寄留者・寡婦・孤児・貧しい人への配慮ということです。


 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」(出エジプト記22章20節)

「 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」(出エジプト記22章21〜22節)

 「 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。
 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」(出エジプト記22章24〜26節)

 寄留者や寡婦・孤児・貧しい人はいずれも社会的に弱い立場にある人々を象徴しています。
 ここでは、こうした人々への搾取や、彼らを食い物にすることが厳に戒められているのです。それは神が、こうした人々に目を注ぎ配慮し憐れんでくださっているからだというのです。


 この神を神とすると宣言する民がどうしてこうした人々を虐げることができるだろうかというのです。神の特性とその神を信じる人の生き方は切り離せないものだということなのでしょう。

 聖書が語る神を神として信じ、礼拝する神の民の生き方は、神の特性に影響されるものであり、神の公正や正義、憐れみをその生活の中で体現せずにはいれないものとなるはずだということなのではないでしょうか。


 「わたしは憐れみ深い」と語られる神をおのが神として信じる者が、全く神の憐れみに無頓着に関わりなく生きることができるでしょうか。


 預言者を通して「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2章4節)と語られた神を信じる者が、平和を求めずにいられるでしょうか。

 礼拝者は礼拝する神の特性をこの世界に体現するものとされているのです。わたしたちは聖書が語る神を礼拝する者であり、わたしたちが礼拝する神の特性をこの世界に現していく者でもあるのです。
 


 

 

 


 

 

 

 

〒279-0042

千葉県浦安市東野

1-4-33

 

ファックス

047-351-1993

bottom of page