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今月のみ言葉

「一茎の麦を大切にされる神」 

 マタイによる福音書13章24−30節

 マタイによる福音書13章24−30節に「『毒麦』のたとえ」と呼ばれるたとえ話が記されています。

 本来たとえ話というものは、ストレートに話したのでは分かりづらい内容を解りやすくするために用いられるものでから、聞き手がよく知っている事柄を取り上げて話をするのが普通です。


 ですから、この「『毒麦』のたとえ」というお話も、イエスから直接話を聞いていた人々にとっては、その話に出てくるお話の要素はよく知っていたものに違いありません。

 ところが、最初にこのお話が語られた時から二千年以上の時を経て、地理的にもかなり離れた地域に住む私たちにとっては、このお話に出てくる題材は良く知られたものではありません。


 そもそも「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」と話されても、毒麦というもの自体、私たちには馴染(なじ)みがありません。

 そこで、毒麦なるものがどのようなものなのかを調べてみました。するとパレスチナの地域では毒麦と呼ばれている植物が、麦畑に生えてくることがよくあったのだということが記されていました。

 また、図鑑では、「毒麦は小麦と一緒に芽が出て、同じように育つが、実ると小麦と全く異なる。収穫の時に毒麦を先に集めてしまえば、良い麦を損なうこともない。」と記されていました。ある程度成長してしまえば、麦と毒麦の区別は容易についたということでしょう。

 そうであれば、「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」そこで、 僕(しもべ)たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」そして「では、行って抜き集めておきましょうか」と言ったというのはよくわかる気がします。

 ところがこうした僕(しもべ)たちの進言に対して主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」と答えるのです。それは一茎の麦をも損なうことがないようにとの主人の配慮なのでしょう。

 さて、このような毒麦のたとえを通してイエスは何を語ろうとされたのでしょうか。それは神が一茎の麦をも損なうことのないようにと心を配る主人のようである。ということなのではないでしょうか。

 神は和解の御業の中で、忍耐してわたしたちを見ていてくださるということなのではないでしょうか。

 それは一つのよき種が育つのを望んでおられるのだということなのでしょう。私たちはその神の愛ゆえに、神に見出され、生かされている者であるというのです。


 そして、わたしたちには、一茎の麦をも損なうことを惜しむ神の愛への信頼が求められているというのです。


 神は一茎の麦をも損なうことがないように配慮してくださっているのです。わたしたちはこの神の一茎の麦です。また、この神に信頼をおくことができる者とされているのです。
 

 


 

 

 


 

 

 

 

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