日本キリスト教団
浦安教会
2025年 11月16日(日)10時 30分
降誕前 第6主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 ローマの信徒への手紙 12・1
讃美歌 1(主イェスよ、われらに)
交 読 詩編 77・5-16
主の祈り (93-5)
聖 書 サムエル記上 16・4-13
祈 り
讃美歌 141(主よ、わが助けよ)
説 教 「神の選び」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 452(神は私を救い出された)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「神の選び」
聖 書 サムエル記上 16・4-13
本日は、サムエル記上16章4−13節に記されたそのみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて聖書箇所には、ダビデ王物語の一片が記されています。
ダビデは、イスラエルの民が王国を立ち上げて二代目の王として用いられた人物です。初代の王はサウルという人でした。そしてこの聖書箇所は、ダビデがサウルに代わって王となってゆく物語の一部にあたっています。
上記のようにイスラエルの民が王国を立ち上げた時、最初の王となったのがサウルという人でした。彼は神から選ばれ王としての働きを託された人物でした。またこのサウルに油を注ぎ神の選びがあることを表したのはサムエルという預言者でした。
ところが、サウルは王となると次第に神に従う道から離れるようになります。そのため神はサウルを王位から退けます。そして神はサウル王に代わる人物を見出すべく、預言者サムエルを動かすのです。
神は預言者サムエルに語りかけます。
「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
しかし、預言者サムエルは、この神の言葉に従うことを躊躇(ちゅうちょ)します。それは公然とサウル王に代わって王となる人物に油注ぎをするなどということをすれば、サウル王から謀反人として処分されてしまうからです。そのためサムエルは秘密裏に油を注ぐのです。
預言者サムエルは、ベツレヘムにゆきエッサイの息子たちを招き、エッサイに息子たちを紹介させます。そして、ダビデを見出し、彼に油を注ぎます。すると、それ以来「主の霊が激しくダビデに降るようになった。」というのです。
こうして特別に神から選ばれている人であることを象徴する油注ぎと神の霊の授与ということがセットになって出てきます。
けれども、わたしが読んだ書物の中にこのような一文がありました。
「旧約時代には、神の霊は特別な人々にのみ下り、彼らを他の人々から区別したのに対して、新約時代に入ると、聖霊はすべてのキリスト者に与えられるようになった。
しかし、どちらの場合であっても、聖霊が住んでおられるということは、自分が喜び誇りとするような財産ではなく、他の人を喜ばせ幸せを与えるための能力である。」
旧約の世界では、霊の授与は霊を与えられた人を特別な人として他の人と区別させました。しかし、その同じ霊が今や、聖霊という形でわたしたち一人ひとりに与えられているのです。
そして、聖霊の働きを通して、わたしたちは神の選びということを受け取ることができるようにされました。ただ、その選びは、区別や選別ということではないのです。
神に選ばれているということは、神との特別な関係を表します。それは神からかけがえのない者として知られ、愛され、選び出されるということです。
神の選び、それはわたしたちが神から誰とも替えることができない存在として造られ、誰とも替えることができない使命を与えられていることを教えてくれます。わたしたちは、神から「あなた」と呼びかけられている選ばれし特別な存在なのです。
2025年 11月9日(日)10時 30分
降誕前 第7主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 ヨハネによる福音書 4・23
讃美歌 21(主をほめたたえよ)
交 読 詩編 105・1-11
主の祈り (93-5)
聖 書 ヤコブの手紙 2・14-26
祈 り
讃美歌 458(信仰こそ旅路を)
説 教 「信仰を生かす」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 516(主の招く声が)
使徒信条 (93-4)
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「信仰を生かす」
聖 書 ヤコブの手紙 2・14-26
本日はヤコブの手紙2章14−24節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて聖書箇所はヤコブの手紙と題された手紙の一部になっています。
そこで、このヤコブの手紙を見てみますと、他の新約聖書に収められた文章とは少し異なった主張が記されているように感じさせられます。特に使徒パウロが記している手紙の主張とは、まるで反対のことを語っているかのように読めるのです。
パウロは、その手紙の中で再三、人は律法を行うことによって救われるのではない、主イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられた神の救いを信じることによって救われるのだと説きました。
ところが、ヤコブの手紙では「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」と説くのです。まるで、パウロの主張と真っ向から対立するようなことを語っています。
しかし、だからヤコブの手紙は反パウロ的な内容になっていると断定することはできないと思います。そのことはヤコブの手紙2章24節の言葉からもわかります。
ヤコブは「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」と言っているので、「人は行いによって義とされるのであって、信仰によるのではありません。」とは言っていないのです。
それは、この手紙が単に反パウロ主義を標榜(ひょうぼう)するものではないからです。ヤコブは、パウロを敵対者と見て、この手紙を執筆しているのではないのです。ヤコブは彼が指導している教会の中に起こっていた問題を見てこの手紙を執筆したのです。
それは誤ったパウロ主義者たちが引き起こす問題です。誤ったパウロ主義者たちは、人が信仰によってだけ救われるというのであれば、口で信じますと告白してしまえば、あとは何をしても、また何をしなくてもよい、好き勝手に自分の欲望の赴くままに生きればよいというようなことを言っていたのではないかと思うのです。
それがこの手紙では「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」と言って批判されているのです。
人は口だけ頭だけで生きているのではないということでしょう。信仰は全人格に働きかけ影響を与えてゆくものだというのではないでしょうか。ですから、ヤコブはこの手紙で良い行いをし続けなければ救われないというようなことを言っているのではないのです。
イエスをキリストと信じる信仰によって人は救われる。一方で、その信仰は人をつくり変えてゆくものだというのです。こうして、信仰は心の問題だから、実際の生き方とは関係がないという見方に否をいうのです。
このヤコブの指摘は、わたしたちにも向けられているのではないでしょうか。信仰はわたしたちの心や頭だけではなく、生き方を含めて全人格的に関わりのあるものではないでしょうか。
なぜなら、信仰を持つことは、わたしたちの生き方、感じ方、視点を変えるものだからです。信仰は心の問題だから自分の心が穏やかになったり平安になったりすればそれで良い。この世界で起こっている出来事とは関係がないということはできないのではないかと思うのです。信仰はわたしたちの生き方全てに関わるのです。
2025年 11月2日(日)10時 30分
永眠者記念礼拝
降誕前 第8主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 詩編 100・1-2
讃美歌 20(主に向かってよろこび歌おう)
交 読 詩編 51・1-11
主の祈り (93-5)
聖 書 マルコによる福音書 7・24-30
祈 り
讃美歌 516(主の招く声が)
説 教 「信じて望むなら」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 458(信仰こそ旅路を)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「信じて望むなら」
聖 書 マルコによる福音書 7・24-30
本日は、マルコによる福音書7章24−30節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて聖書箇所には、主イエスと、一人の女性とのやりとりを中心にした出来事が記されています。
イエスは、神の御心を宣(の)べ伝えるための宣教活動をされていた当初、ガリラヤ湖畔の町や村を巡って活動をされ、ユダヤの人々に向かって福音を語っておられました。そういう意味では、イエスの活動範囲はそんなに広いものではありませんでした。
しかし、時折ガリラヤ地方を離れて、他民族の領地に足を踏み入れることがありました。この聖書箇所に記されている出来事もガリラヤ地方を出て、フェニキアと呼ばれる民族の領地に行かれたことが前提になっています。
イエスは、ガリラヤの北方に位置するフェニキア人の領地にあったティルスという町に赴かれて、喧騒(けんそう)から少し身を引いて休息を持とうとしたのでしょう。
ところが、ティルスの町にもイエスの評判が届いていたらしく、イエスがティルスの町に来たことが町の人々に知れ渡ってしまいました。
そこで、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」というのです。
この女性は、治癒者として名高いイエスになんとかして娘を癒(いや)してもらいたいと願っていたのでしょう。
しかし、イエスはこの女性の願いを聞くと、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答えられるのです。それは今、あなたの求めには応じられないということです。
すると、この女性は「主よ、しかし」と言って「食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」と返すのです。
この女性は、イエスの言葉を聞いて「そうですか、残念です。」と言って退いてしまうことをしないのです。主よ、しかしと言って、なおイエスと向き合うのです。
このイエスへの信頼と求め、それに応えてイエスは語ります。
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。
こうして、この女性の姿を通し、信仰とは何かということの一端が語られているのではないかと思うのです。イエスと向き合い続けてゆこうとすること、それが信仰の一つの姿なのではないでしょうか。
なぜなら、そこには、イエスが生きて働いてくださっているという信仰があるからです。イエスは生きて働いていてくださっているという前提なしに、不断にイエスに向き合い続けるということは意味を持たなくなってしまうでしょう。
本日の聖書箇所の中でも、イエスはこの女性とのやり取りで当初の言葉を覆して、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言うのです。
それは、イエスとの交わりは生きているものであるということを語っているのです。この出来事には、生きて働いておられるイエスを自分の中心に置くことを選び取る恵みが語られているのではないでしょうか。