日本キリスト教団
浦安教会
2025年 1月26日(日)10時 30分
降誕節 第5主日
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 イザヤ書 43・1
讃美歌 20(主に向かってよろこび歌おう)
交 読 詩編 32・1-11
主の祈り (93-5)
聖 書 マタイによる福音書 6・9-13
祈 り
讃美歌 481(救いの主イェスの)
説 教 「大いなる赦しの中で」 柏井 創牧師
祈 り
讃美歌 479(喜びは主のうちに)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「大いなる赦しの中で」
聖 書 マタイによる福音書 6・9-13
「主の祈り」は古めかしい言葉ですが、これは元訳と呼ばれる1880年刊行の聖書に基づいています。
第5の祈願「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」の「我らが赦すごとく」は、自分に対する他の人の罪を赦すことが自分の罪の赦しを求める前提条件のように読めます。もしそうであるならば、誰がこの祈りを祈ることができるでしょうか。
しかし、原文は新共同訳 聖書(1987年)のように「赦してください」が前にあって主文、「赦しましたように」は後にあって従属文になっています。
マタイによる福音書6:12「わたしたちの負い目を赦してください」の負い目は、ユダヤ人が使っていたアラム語では罪を表します。
罪とは償わねばならない負い目です。それも他の人に対する悪い思いや行いに止まらず、何よりも神に対する責任を果たしていないということです。
わたしたちは自分の力でこの負い目を償うことはできません。罪があること罪人であることも本当には自覚できません。
そのようなわたしたちのために、主イエスはわたしたちの罪(負い目)のすべてを担って十字架にかけられ、わたしたちの罪を始末し、赦してくださいました。この出来事に直面してはじめてわたしたちは己れの罪を知り、罪が赦されたことを知るのです。
主イエスは第5の祈願を教えて「わたしがあなたの罪の負い目を負って赦したのだから、受け取りなさい」と呼びかけておられます。わたしたちはもう完全に罪を赦されています。
そのことをさらに深くたしかに信じるために「我らの罪をも赦したまえ」と日毎に祈ります。これが神との交わりです。
「我らが赦すごとく」という従属文は、1行ずつ対になっている主の祈りのリズムを乱していますから第5祈祷の補足として付け加えられたものと推測されます。
神は赦しを求め、赦しを受け入れることと、他の人を赦すこととは不可分ということです。
神の赦しは驚くべき恵みで、罪の自覚と悔い改めなしに受け入れることはできません。
「我らが赦すごとく」は、赦すことの困難あるいは不可能を示して、罪の自覚を促します。
わたしたちは「赦しえぬわたしをお助けてください」と挫折を告白して祈らざるを得ません。
しかしこの挫折は、神の大いなる赦しの中で起こっているのです。
2025年 1月19日(日)10時 30分
降誕節 第4主日
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 マタイによる福音書 11・28
讃美歌 19(み栄え告げる歌は)
交 読 詩編 40・6-12
主の祈り (93-5)
聖 書 マタイによる福音書 4・18-22
祈 り
讃美歌 432(重荷を負う者)
説 教 「わたしに従いなさい」 笠田 弘樹牧師
祈 り
讃美歌 510(主よ、終わりまで)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「わたしに従いなさい」
聖 書 マタイによる福音書 4・18-22
本日は、マタイによる福音書4章18−22節に記されたみ言葉に聞いて行きたいと思います。
さてこの聖書箇所には、主イエスが四人の漁師を弟子として招かれるという出来事が記されています。
イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、ガリラヤ地方での宣教活動を始められます。そしてすぐに、四人の漁師を招き弟子とされるということをなさいます。その経緯が本日の聖書箇所にこのように記されています。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」
四人の漁師はいともたやすくついていってしまいます。それまでの職業や生活を置いて、ついて行くのです。何が彼らをして、そのような決断へと導いていったのだろうかと思わされてしまいます。
彼らは、イエスから言葉を与えられました。しかし、その言葉自体の明瞭さやインパクトや内容の良し悪しとは異なったところで、イエスについてゆく決断をしているのではないかと思わされるのです。
四人の漁師は、明確な言葉を与えられ、それを吟味し、自分たちにとってのメリットやデメリットを勘案し、計算づくでイエスについていった訳ではありません。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉がわたし宛のメッセージであると気付かされ、わたしへ贈られたものだと受け止めて、イエスについてゆくという応答をしたということなのではないでしょうか。
そこで、イエスと四人の漁師は、「あなたとわたし」という交わりを結ぶものとなったのではないかと思うのです。こうして四人の漁師はイエスの真の弟子となっていったのでしょう。
そしてこの出来事をかえりみるとき、イエスとわたしたちとの関係の中で、このイエスについてゆくということがとても大切なことなのだと思わされるのです。
別言すれば、イエスについてゆくという応答なしに、イエスが確かに生きて働き、そこに存在しているということを感得することはできないということではないでしょうか。
イエスとの「あなたとわたし」という交わりがなければ真のイエスの弟子とはならないということなのではないかと思うのです。
イエスとわたしたちとの関係には、イエスという方が大切なのです。「知っています」「存じています」という信仰には力はありません。イエスという方と「あなたとわたし」という差し向かいの交わりを持つことが大切なのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」このメッセージは、あなた宛のメッセージです。このメッセージを、わたし宛のメッセージとして受け、イエスについてゆき、離れずにいる。そのとき、わたしの中に、イエスが確かに存在し始めるのです。