日本キリスト教団
浦安教会
2025年 7月13日(日)10時 30分
聖霊降臨節 第6主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 イザヤ書 43・1
讃美歌 3(扉を開きて)
交 読 詩編 133・1-3
主の祈り (93-5)
聖 書 使徒言行録 4・32-37
祈 り
讃美歌 411(うたがい迷いの)
説 教 「神を信じる人々の群れ」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 486(飢えている人と)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「神を信じる人々の群れ」
聖 書 使徒言行録 4・32-37
本日は、使徒言行録4章32―37節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、聖書箇所には、教会が誕生して間もない時代の様子を語る言葉が記されています。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」
使徒言行録は、初期の教会が共に持ち物を分かち合い、互いに助け合う群れであったことを告げています。こうして、使徒言行録は、初期の教会の姿を描くことによって、イエスを救い主・キリストと告白する者たちの理想的な姿を示したかったのかもしれません。
さらに、バルナバという人の行動が紹介されています。
「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ ― 「慰めの子」という意味 ― と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
ここには、初期の教会の姿がバルナバを例として紹介されています。
それは、一見「能力に従って働き、必要によって分配する」という共産主義制度が確立していたかのように見えます。ところが、よく見てみるとここでは、共産制を制度として確立することを奨励しているのではないことがわかります。
例えば、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」と語られていますが、ここには、教会に集う者が誰も私有財産を持つことはしなかったとは記されていないのです。全てのものが制度的に教会の所有とされていたということではなかったようなのです。
「人々は持ち物を自分のものとは言わなかった」ので、持ち物がなかったわけではないのです。彼らは自由に持っているものを捧げることが求められ、分かち合いが進められていたわけで、強制的に徴収されたわけではありません。この自由ということが大切なのではないかと思うのです。
こうして使徒言行録は、自分の手にあるもので、自己を保証し、安心立命を得ようとしないありようを物語ろうとしているのではないでしょうか。それが、キリスト者の群れにとって大切だと言っているのではないかと思うのです。
そして、こう問いかけているのです。あなたの手にしているものは、あなたが自らの手で勝ち得たものですかと。神から与えられたものではないですかと。
わたしたちの持てるものの多くは、授かりものです。そこで、わたしたちが求められることは、わたしたちにそれぞれ固有の賜物を授けてくださっている神に顔を向けるということではないでしょうか。
その時、わたしたちは神がわたしたちに授けられたものは、自らの存在を保証するためだけに与えられているのではないことに気付かされるでしょう。また、わたしたちの持てるものは、互いに生かし合うために神から授かったものであることに気づくでしょう。そして、わたしたちが預かったものを生かし合う時、そこに何倍もの実りがそなえられるのです。
2025年 7月6日(日)10時 30分
聖霊降臨節 第5主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 ローマの信徒への手紙 12・1
讃美歌 2(聖なるみ神は)
交 読 詩編 14・1-7
主の祈り (93-5)
聖 書 申命記 26・1-11
祈 り
讃美歌 430(とびらの外に)
説 教 「神へのささげもの」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 449(千歳の岩よ)
使徒信条 (93-4)
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「神へのささげもの」
聖 書 申命記 26・1-11
本日は、旧約聖書申命記26章1―11節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、聖書箇所であります申命記ですが、この書物には、モーセがイスラエルの民に語った教えの数々が記されています。
かつてイスラエルの民は、エジプトで、奴隷のような扱いを受け、エジプト王の圧政に苦しんでいました。そうした苦境の中で人々は、神に祈りました。そこで民の祈りを聞かれた神は、モーセを選び、彼をリーダーとしてイスラエルの民をエジプトから導き出し、カナンと呼ばれる土地に定着させることを意図します。
この神の意図によるエジプトからの解放と、カナンの土地までの旅路を、出エジプトの出来事と言っています。申命記は、このモーセがカナンの土地を目の前にして、エジプトからの解放からここに至る旅路の出来事を振り返りつつ、旅路の中で与えられた神からの戒め、律法の数々を説き起こし、再確認させるという内容になっています。
本日の聖書箇所に記された言葉は、こうした申命記の中の一つの教えです。それは、イスラエルの民が、カナンの土地に入って、定着した暁になすべきことを示したものです。
1−2節には、このように記されています。
「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。」
ここで言われていることは、あなたがたが、カナンの土地に入り定着したとき、そこで実る実りの初物を聖所に持ってきて神にささげなさいということです。つまり、神へのささげ物と共に礼拝をしなさいということでしょう。
イスラエルの人々は、定着した土地で取れた実りの初物を神の前に持ってきてささげ、神を礼拝する。そしてそのささげをもって、自らのアイデンティティーを確認させられてゆくのです。
わたしたちはこの神を神として信じ、神が与えてくださった戒めの言葉に従って生きるという仕方で、神の業に応えてゆく者であるということを受け取るのです。
このイスラエルの民のささげと告白と応答、それはイスラエルの民だけでなく、わたしたちにも求められているものではないでしょうか。
イエスを通して現された神の救いのみ業を信じるわたしたちも、神の支えと導きと配慮のなかで生かされている者である。そしてこの神へ望みをおき、期待を持ち、信頼を向けることで、神のみ業に応えてゆく者とされている。それがわたしたちのアイデンティティーであるということを確認するのです。
イスラエルの民が、大切な初物をささげ、告白を添えて神を拝する。彼らはそこで、神の豊さを知らされ、自らのアイデンティティーを確認させられたのです。それは、わたしたちにも通じているものです。
わたしたちも、ささげることが求められています。そうしたささげの一つが礼拝です。礼拝をささげる。自らの大切な時間をささげ、仕事をささげる。そしてそのささげに告白を添える。このことを通して、神の豊さを知らされ、また自らが何者であるのかを確認させられるのです。
そしてわたしたちは、神に養われ育まれる神の民であることを知らされるのです。そこに喜びが与えられるのです。また、その喜びのうちに生きる者とされるのです。