日本キリスト教団
浦安教会
2025年 4月20日(日)10時 30分
復活日(イースター)
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 詩編 68・20-21
讃美歌 12(とうときわが神よ)
交 読 詩編 66・1-9
主の祈り (93-5)
聖 書 マタイによる福音書 28・1-10
祈 り
讃美歌 321(しずかな喜び)
説 教 「復活の主イエス」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 333(主の復活、ハレルヤ)
使徒信条 (93-4)
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「復活の主イエス」
聖 書 マタイによる福音書 28・1-10
本日はマタイによる福音書28章1−10節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、聖書箇所には、主イエスの復活を告げる出来事が物語られています。
イエスは十字架に架けられ亡くなられました。その後墓に葬られました。それが、わたしたちの曜日で言うと金曜日の日没前の出来事でした。そして土曜日一日挟んで、日曜日の日の出まえ、まだ闇があたりを覆っている時間にマグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスの葬られた墓に赴くのです。
そして、彼女たちがイエスの葬られた墓の前に着くと、突然地震が起こって、墓の入り口を塞いでいた大きな石が転がり、そこに天使が現れたというのです。
すると「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と記します。
また、墓に来ていた女性たちにメッセージが与えられたと語ります。
そのメッセージは、「急いで行って弟子たちに告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」というものでした。
さて、このマタイによる福音書が告げる主イエスの復活の出来事を聞く時に、わたしは、一つ印象に残る言葉があります。それは、天使が墓の入り口を塞いでいた石を転がし、その上に座ったと告げる言葉の後の一節です。
「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」
この番兵たちの姿を語る一節がとても興味深く、印象に残されたのです。特に番兵たちが「死人のようになった」というところがとても印象的でした。
彼らは、墓の前で死人の番をしていたわけです。ところが、彼らが死人のようになるというのです。こうして、ここに神のなされる逆転ということが語られているのではないでしょうか。
また、ここには人間の常識や思惑や策略が及ぶことのできないことが起こされていると語られているのではないでしょうか。神はイエスを復活させることを通して、あらゆる人間の思惑や策略や常識を逆転させ、ひっくり返すことをなされたのです。
わたしは、この神の業を例えることができるとすれば、最後の一手でそれまでのコマが全てひっくり返されるオセロゲームのようなものだなと思わされるのです。
最後の一手で黒かったコマが見事に白く変わってゆく。そうした神の業がここにはある。暗い闇に覆われた状況がひっくり返される。それがこの出来事の語るメッセージの一つなのではないでしょうか。
イエスは十字架の上で死なれました。「死」はわたしたちの生に否定的な根を与える力を持っています。先ほどのオセロの例えでいえば、ゲーム盤のマス目にあるコマを全て黒くするような力を持っていると言えるのではないかと思わされます。
しかし、神はイエスを死から引き起こされました。神の最後の一手で、黒いコマが白くひっくり返えされたのです。
この人智を越える神の業を通して、わたしたちは、死への囚われから解放されるのです。そして、わたしたちが永遠への希望を持つことができるようにされるのです。
イエスが復活させられたというメッセージ、それは否定から肯定へ、虚無から希望へと至る道が神から与えられていることを告げているのです。
2025年 4月13日(日)10時 30分
棕櫚の主日
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 イザヤ書 42・1
讃美歌 11(感謝にみちて)
交 読 詩編 118・19-29
主の祈り (93-5)
聖 書 マタイによる福音書 21・1-11
祈 り
讃美歌 309(あがないの主に)
説 教 「柔和な王イエス」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 304(茨の冠を主にかぶせて)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「柔和な王イエス」
聖 書 マタイによる福音書 21・1-11
本日は、マタイによる福音書21章1−11節に記されたみ言葉に聞いて行きたいと思います。
さて聖書箇所には、イエスのエルサレム入場という出来事が記されています。
イエスは、ガリラヤでの宣教活動を終えて、エルサレムへと向かって旅立たれます。そしていよいよエルサレムに近づいて、エルサレムから1キロメートルほど離れたベトファゲという村に近づいた時、二人の弟子を使いに出そうとして言われます。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
この言葉を聞いた二人の弟子は、早速ベトファゲ村に赴きます。するとイエスの言葉の通りに雌ろばとその雌ろばの子を見つけてイエスのもとに引いてゆきます。そして彼らはろばの背に自分の服をかけてイエスがろばに乗りやすいようにします。
そこでイエスはろばにお乗りになってエルサレムの街へと進んでゆかれます。すると、イエスを取り巻いていた人々も、自分の上着を道に敷き、さらに木の枝を切ってきて道に敷きながら、イエスの前に後に従って進んでゆくのです。
このイエスの行為、それは子ろばに乗るということの中に、イエスのはっきりとした意図があったということを表しているのではないかと思うのです。歩き疲れたから足休めに子ろばに乗ってみようかなどといった思いつきの行動ではありません。そこにはかなり強い意図があったのではないかと思うのです。
それは、イエスの権威は権力や支配力の上に築かれたものではなくて、柔和さの上に築かれたものであるというメッセージではないかと思わされるのです。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
この言葉のようにイエスはエルサレムへと進み行かれ、ご自身が柔和な王であることを語っているのです。
ここで柔和という言葉が出てきますが、この柔和という言葉は、柔和という意味だけではなく「痛めつけられる。みじめである。」という意味も持っているそうです。それは柔和さということが、単に優しいとか穏やかであるという意味ではないということを語っているのでしょう。
それは、イエスの権威の源となっている柔和さとは、低きに下り、自らを与え、人々の下支えをすることを意図するところからくるものであるということなのではないでしょうか。
イエスはエルサレムの街へろばの子に乗って進んで行かれました。この一種奇異な姿をもってメッセージを残して行かれました。そしてイエスは、あなたにこのメッセージを聞いてほしいと望んでおられるのではないかと思うのです。
イエスは、イエスの行為の源にあるものが柔和さであることを開き示して下さっています。イエスはわたしたちの一番下に立ってくださる。そしてわたしたちを下支えしてくださっているのです。
イエスは言われます。このわたしに信頼を寄せなさい。わたしの声を聞き、わたしと共に生きて行きなさい。その時あなたは、一人ではないことを知るだろう。そして一時一時をしっかりと生きて行くことができるようになるだろうと。