日本キリスト教団
浦安教会
2025年 6月29日(日)10時 30分
聖霊降臨節 第4主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 ローマの信徒への手紙 5・5
讃美歌 1(主イェスよ、われらに)
交 読 詩編 67・1-8
主の祈り (93-5)
聖 書 フィリピの信徒への手紙 2・12-18
祈 り
讃美歌 357(力に満ちたる)
説 教 「命の言葉をしっかり保つ」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 393(こころを一つに)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「命の言葉をしっかり保つ」
聖 書 フィリピの信徒への手紙 2・12-18
本日は、フィリピの信徒への手紙2章12−18節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、本日の聖書箇所である、フィリピの信徒への手紙という手紙ですが、この手紙は今から2000年近く前、パウロからフィリピの街に建てられていた教会に宛てて送られた手紙です。
この手紙の基調となっているテーマは「喜び」です。この手紙には繰り返し、「喜び」「喜べ」という言葉が用いられています。
しかし、パウロはこの手紙を認めている時、牢に入れられていたのです。それはパウロにとっては不都合極まりない状況に置かれていたということになるでしょう。けれどもパウロは喜ぶと語るのです。それは決して当たり前のことではありません。
一般的に喜びというのは、自分にとって都合の良いことが起こった時に、現れてくる感情です。しかし、パウロは、自分にとって都合が良くない状況にあっても、なおわたしは喜ぶと言い、あなた方も喜び喜べと勧めるのです。
パウロにとっての喜びは自分にとって都合の良いことが起こった時に自(おの)ずと現れるような感情のことではないのです。パウロが語る喜び、それは、イエス・キリストによって、救われ、生かされていることを喜ぶ、喜びということなのです。
それは、福音に生かされていることの喜びということではないかと思います。この喜びを共にしてほしいとパウロは願っているのです。また、わたしたちに喜びを与える福音に生き、神に従う者であり続けてほしいと願うのです。
本日の聖書箇所の12−13節にこのように語られています。
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」
フィリピの教会はパウロが礎を築いた教会です。しかし、今フィリピの教会はパウロの不在を経験しています。教会の人たちは、直接パウロから指導してもらうことはできないのです。
けれども、そうした状況であるからこそ、なおのことパウロが教えた福音に生き、神に従順な生活をしてほしいとパウロは願うのです。なぜなら信仰は有力者によって立つものではなくて、「わたしはここにいる」「わたしはあなたと共にいる」と語ってくださっているイエスによって立つものだからです。
また、信仰は、イエスによって与えられる救いを受け取る器です。この器を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。そして、それが「自分の救いを達成するように努める」という言葉で表されているのではないでしょうか。
いくら芳醇(ほうじゅん)なワインを与えられても、そのワインを盛る器がなければ、ワインの芳醇さを味わうことができないように、イエスを通して与えられている神の救いや神の愛も、それを盛る器が用意されてはじめて、その人にとって真実なものとなるのではないでしょうか。そして、そこにパウロの言う喜びが湧き出てくるのです。
神に顔を向け続けてゆく、み言葉に聞き、祈り続けてゆく、それがわたしたちの器を磨き、広げて行くことになるのです。
2025年 6月22日(日)10時 30分
聖霊降臨節 第3主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 詩編 51・19
讃美歌 21(主をほめたたえよ)
交 読 詩編 25・1-11
主の祈り (93-5)
聖 書 マタイによる福音書 3・1-6
祈 り
讃美歌 356(インマヌエルの主イェスこそ)
説 教 「悔い改める」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 441(信仰をもて)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「悔い改める」
聖 書 マタイによる福音書 3・1-6
本日は、マタイによる福音書3章1−6節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、聖書箇所には、洗礼者ヨハネについてのお話が記されています。
洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けた人物でした。また、イエスが公の活動に出る前に、イエスの
ことを人々に紹介し、イエス登場の道備えをした人物でした。この洗礼者ヨハネの働きについて聖書箇
所の1−2節でこのように記されています。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣(の)べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づ
いた』と言った。」
ヨハネはその働きを荒野で始めます。荒野、それは不毛の地です。そこは人気もなく、荒涼とした場
所です。しかし、一方で古来荒野は神との出会いの場所としても捉えられていました。
かつて、イスラエルの民は40年に及ぶ出エジプトの旅路で、荒野を彷徨(さまよ)い、そこで神と
の出会いを経験させられました。また、そうした神との出会いの中で、荒野に水が湧き、マナという食
べ物が与えられるという神の養いを体験しました。
荒野、それは人気のない場所です。また、そこは自らの限界を示される場所でもあります。人の力も
自分の力も頼りにできない。そんなところです。そのために神と出会うということが起こるのです。
人はある時、自らの力に頼れないそんな状況になることがあります。そんな人生の荒野にあって、人
は神との出会いを経験するということがあるのかもしれません。
自分が貧しく、乏しく、何ものも持ち得ないことを知る、救いに必要なものを何も持っていないこと
を知って、空になる。そこで神の業に気付き、神の救いが満たされるということがあるのでしょう。
そして、この荒野からヨハネは叫びます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」と。
荒野に立つヨハネは、人々に悔い改めを求めるのです。悔い改め。それは自らの諸行を省みて反省す
るということとは少し違います。
ちなみに聖書の元々の言葉であるギリシア語では、この悔い改めと訳されている言葉をメタノイアと
記しています。このメタノイアという言葉について、岩波書店から刊行されている聖書の用語説明とい
うところを見てみますと、このようなことが記されています。
「メタノイアは普通『悔い改め』と訳されるが、原意としては必ずしも悪行を『悔いて』『改める』
の意味ではない。認識と心性の方向性を180度逆転し、『神』の方向を向くこと、従って『回心』と
訳す」
洗礼者ヨハネが叫ぶ悔い改めは、わたしたちが180度転換して、神の方を向くということなのです。
洗礼者ヨハネは、荒野に立って、悔い改めよと叫び続けています。神以外に頼るものがない、そんな荒
野という場所に立って、そこから回心をするようにと叫ぶのです。
そして、あなた方の人生の荒野でわたしの声を聞きなさいと促しているのです。悔い改めよ。神に立
ち帰れ、立ち帰れ。この洗礼者ヨハネの声を聞き、回心する時、神はその立ち帰りを受け止めてくださ
ることを知るのです。そこでわたしたちは、実に神がわたしに一番近い存在となっていてくださってい
ることを悟るのです。