日本キリスト教団
浦安教会
2024年 9月8日(日)10時 30分
聖霊降臨節 第17主日
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 詩編46・11
讃美歌 20(主に向かってよろこび歌おう)
交 読 詩編23・1-6
主の祈り (93-5)
聖 書 ヨハネによる福音書 10・1-6
祈 り
讃美歌 518(主にありてぞ)
説 教 「良い羊飼いイエス」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 459(飼い主わが主よ)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「良い羊飼いイエス」
聖 書 ヨハネによる福音書 10・1-6
本日は、ヨハネによる福音書10章1−6節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて本日の聖書箇所には、イエスが語られた譬えの一つが記されています。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
ここには羊飼いと羊との日常を取り上げた譬えが語られています。
まず、イエスはこの譬えの冒頭で羊の囲いと門について語られています。そして、ここでは羊が囲いの中に入っているということが前提となっています。
こうして羊が入る囲いとはどんなものであったのでしょうか。「羊の囲いとは、羊のいくつかの群れが、一つの建物の中庭で夜を過ごすという習慣が前提とされている。」と記す本がありました。
ここでは、羊飼いが羊を連れて牧草を求め旅をしているときの宿泊先の中庭などに作られた、囲いのことを言っているようです。そして、その囲いの中には、宿泊先に泊まっている何組かの羊飼いの羊が一緒に入っていたようです。
羊飼いは朝になると、何組かの羊が入っている中庭の囲いから、自分の羊を連れ出して、牧草を与え、羊を養うというのです。その時、羊飼いは自分の羊の名前を呼んで連れ出すというのです。羊飼いは一匹一匹の羊に名前をつけて、その名前を覚え、全部把握しているというのです。
こうして、羊飼いが羊一匹一匹に名前をつけて、その名前を知っているということは、羊飼いが一匹一匹の特徴を知り、その姿をよく見ていることを表しているのではないでしょうか。
少し肥えた羊、痩せた羊、落ち着きのない羊、おっとりしている羊、一匹一匹が今どんな状態にあるかを見、知っている。また、一匹一匹に名前をつけているということは、一匹一匹を愛しんでいるということでもあるのでしょう。
そうした羊飼いこそが、真の羊飼いであり、真実に羊を養い支えることができる羊飼いであるとイエスは言われるのです。また、真の羊飼いに養われることを望むよう教えられるのです。
一匹一匹の羊を見、知り、その羊がどんな特徴を持っているのかを見ておられ、その羊がどのような特徴を持っていようと、名前をつけて愛おしむ、そして羊を守り、癒す。イエスは、そのような羊飼いです。このイエスについて行く、そこにこそ羊のいのちが育まれて行くのだと言うのです。
イエスは「わたしは良い羊飼いである」「真の羊飼いである」と告げられます。また、わたしはあなたの名を呼ぶ、わたしの声に聞き、わたしについて来なさいと言われているのです。
ただこの主を愛す。それが、羊飼いイエスについて行くということなのではないでしょうか。
わたしたちとイエスとの交わりは、真の羊飼いと羊との関係そのものであるとイエスは言われます。
そうしたイエスとわたしたちとの交わりは、とてもシンプルなものなのかもしれないと思わされたりします。真の羊飼いイエスがわたしの名を呼んでいてくださる、このイエスに信頼を持ってついて行く。それこそがイエスとわたしたちとの交わりとなるのでしょう。
2024年 9月1日(日)10時 30分
創立50周年記念礼拝
聖霊降臨節 第16主日
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 ヨハネによる福音書 4・23
讃美歌 19(み栄え告げる歌は)
交 読 詩編65・1-5
主の祈り (93-5)
聖 書 ヨハネによる福音書 8・39-47
詩編119・105
祈 り
讃美歌 58(み言葉をください)
説 教 「み言葉に聞き続けよう」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 390(主は教会の基となり)
使徒信条 (93-4)
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
頌 栄 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「み言葉に聞き続けよう」
聖 書 ヨハネによる福音書 8・39-47
詩編119・105
本日は、教会創立50周年の記念日です。
そこで、本日は創立50年にあたってヨハネによる福音書8章39−47節に記されましたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、この聖書箇所にはイエスとユダヤ人との間で起こった論争の出来事が記されています。
そしてイエスとユダヤ人との間で起こった論争の出来事の中で一つ興味を惹かれるところがあります。それは、イエスと対峙しているユダヤ人たちの性格の変化です。
8章31節を見ますとこのように記されています。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」
この言葉から、イエスの論争相手になっているユダヤ人たちは、もともとはイエスを信じた人々であったということになります。それが、いつの間にかイエスの論争相手に変わってしまうのです。彼らはイエスを信じた人々からイエスと対立する人々へと性格が変わってしまっているのです。
彼らが信じたというのは、いったいどういう信じ方であったのだろうかと思うのです。なぜ、イエスに対峙している人々の性格が豹変してしまったのでしょうか。その発端はイエスが彼らに語られた言葉にあります。
イエスは、ご自分を信じた人々にこう語られました。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
すると、この言葉がユダヤ人たちの気に障(さわ)ったのです。そして反発を起こしたのです。
彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と。
彼らは、先祖の時代から今に至るまで、異教の神に隷属したことはなかったとの自負がありました。神を信じる民として生き続けてきたし、これからも神の民として生き続けてゆくのだという矜持(きょうじ)を持っていたのでしょう。
イエスを信じた人々のイエスに対する対応の変化、それは彼らが根本的(固着した信心)に何も変わっていなかったということを現しているのではないでしょうか。
確かに彼らはイエスの教えを聞き、イエスを信じたように見えました。しかし、彼らは根本的に変わったのではなく、これまでの信心に少し彩を加えてくれる何かを、イエスに求めていたのではないでしょうか。
ですから、彼らの根っこの部分にイエスの言葉が触れると、途端に性格が変わってしまうということが起こったのではないかと思うのです。
しかし、イエスはそこに切り込まれたのです。イエスは、わたしがあなたたちを自由にする。わたしが、固着した信心から、あなたたちを解放して、本当の生きた神との交わりへと導こうというのです。そこに生きた信心が与えられるというのです。
信仰は、生きて働く神との交わりの中で、活性されるものであるということなのでしょう。 このイエスの言葉は、わたしたちへの言葉でもあるでしょう。
わたしたちも、信仰を持って生きてゆくとき、いつも新たな神との交わりを持ってゆくことが大切でしょう。その神との交わりをイエスが与えてくださるのです。
そのためにわたしたちはイエスを主と信じ、イエスのうちに根を張って生きてゆき続けることが必要です。イエスに祈り続け、イエスのみ言葉に聞き続けてゆくことが大切です。
わたしたちは常に新たに主のみ言葉に聞き続けてゆくことが必要なのではないでしょうか。