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 2025年 10月5日(日)10時 30分

​​​ 聖霊降臨節 第18主日 

 標語 イザヤ書30章20-2節

 「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る

 礼拝の順序

 

 前   奏 黙祷


 招   詞  マタイによる福音書 11・2


 讃美歌 16(われらの主こそは

 交 読  詩編 119・33-40


 主の祈り (93-5)


 聖 書  マタイによる福音書 19・13-15

 祈 り

 讃美歌 492(み神をたたえる心こそは)

​ 説 教  「イエスの祝福  笠田 弘樹 牧師

                  

 祈 り 


 讃美歌 521(とらえたまえ、われらを)

 

 使徒信条 (93-4)

 聖餐式 (主の食卓を囲み)

 

​​​ 頌 栄 25(父・子・聖霊に)

 祝 祷 


 後 奏 黙祷

( 讃美歌は『讃美歌 21』)

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  説  教 「イエスの祝福

  聖     書 マタイによる福音書 19・13-15

2025年 9月28日(日)10時 30分

​​​​​​​​​ 聖霊降臨節 第17主日 

 標語 イザヤ書30章20-2節

 「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」

 礼拝の順序

 

 前   奏 黙祷


 招   詞  イザヤ書 43・1


 讃美歌 15(みことばにより)

 交 読  詩編 15・1-5


 主の祈り (93-5)


 聖 書  マタイによる福音書 18・2-35

 祈 り

 讃美歌 55(人となりたる神のことば)

​ 説 教  「神の赦し」  笠田 弘樹 牧師

                  

 祈 り 


 讃美歌 445(ゆるしてください)

 

 使徒信条 (93-4)​​

 ​​

​​​​​​​​ 頌 栄 25(父・子・聖霊に)

 祝 祷 


 後 奏 黙祷

( 讃美歌は『讃美歌 21』)

​​​

  説  教 「神の赦し

  聖     書 マタイによる福音書 18・2-35

 本日は、マタイによる福音書18章21−35節のみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
 さてこの聖書箇所には、「仲間を赦(ゆる)さない家来のたとえ」と呼ばれる譬(たと)え話が記されています。そして、本日の聖書箇所では、イエスがこの譬(たと)え話を語られるきっかけとなる出来事も記されています。

 それはイエスの弟子の一人であったペトロがイエスに問いかけるというところから始まっています。ペトロは尋ねます。
 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦(ゆる)すべきでしょうか。7回までですか。」と。これに対してイエスは「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦(ゆる)しなさい。」と答えられるのです。

 ペトロはここで「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦(ゆる)すべきでしょうか。七回までですか。」と言っていますね。そもそもペトロが7回まで赦(ゆる)さなければなりませんかと尋ねている7という数字自体が、相当の覚悟が必要な数字です。

 なぜなら7という数字は聖書の中では完全数とされているからです。ですから、ペトロとしても相当の覚悟を持って赦(ゆる)すということを考えていたと言えるのではないでしょうか。

 ところがイエスは、7の70倍でも赦(ゆる)せというのです。それはつまり無制限の赦(ゆる)しを求めているということでしょう。

 しかし、ここでイエスは、あなたに何か悪いことや罪を犯す者が出てきた時、それを黙認したり、するままにさせておけと言っているのではなく、相手を徹底して打ちのめそうと自らの手で復讐することを望んではならないと言っているのではないでしょうか。
 そして復讐ではなく、赦(ゆる)すことが神の御心でもあると言っておられるのではないかと思うのです。

 こうして、イエスは一つの譬(たと)え話を語られるのです。それが「仲間を赦(ゆる)さない家来のたとえ」と呼ばれる譬(たと)え話です。
 このお話しには、主人から膨大な借財を赦(ゆる)された家来が、自分にわずかな借りを持っていた仲間を赦(ゆる)すことができず、結局自らの破滅を招いたということが語られています。

 この不届きな家来は法外な借財を赦(ゆる)してもらったのです。一つの国の国家予算規模の借財を赦(ゆる)してもらった。しかもそれは不届きな家来の功績に対する対価として与えられたものではなくて、あくまでも主人の憐(あわ)れみに起因しているのです。この赦(ゆる)し、それがこの譬(たと)え話のポイントなのではないでしょうか。


 こうしてイエスは、神のわたしたち一人ひとりに対する、向き合い方のなんであるかを教えているのではないでしょうか。神は、わたしたち一人ひとりに愛を持って向き合ってくださっているというのです。

 そして本来わたしたちが支払うべき膨大な罪の報酬を赦(ゆる)してくださっている。また、神は復讐ではなく赦(ゆる)しをもってわたしたちに相対してくださっているというのです。
 何よりもまず、わたしたちは神の愛と赦(ゆる)しのもとにあるというのです。そこに気づいてほしいとイエスは教えているのではないでしょうか。

 するとそこで、わたしたちをして復讐ではなく、赦(ゆる)しへと押し出す力が備えられてくるというのではないでしょうか。赦(ゆる)せと言われるから赦(ゆる)そうというのでは、赦(ゆる)すことは難しいでしょう。

 神の愛と赦(ゆる)しに気付かされる。そして神の赦(ゆる)しに軸足を置くとき、膨大な罪の報酬が赦(ゆる)されているということを知らされるのです。そこから、人間相互の交わりの赦(ゆる)しということが立ち現れてくるのではないでしょうか。
 


 

 

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