日本キリスト教団
浦安教会
2024年 5月5日(日)10時 30分
復活節第6主日
標語 詩編 119編105節
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 エフェソの信徒への手紙 5・14
讃美歌 20(主に向かってよろこび歌おう)
交 読 詩編8・1-10
主の祈り (93-5)
聖 書 出エジプト記 33・7-11
祈 り
讃美歌 431(喜ばしい声ひびかせ)
説 教 「顔と顔を合わせて」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 461(みめぐみゆたけき)
使徒信条 (93-4)
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
頌 栄 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「顔と顔を合わせて」
聖 書 出エジプト記 33・7-11
本日は、出エジプト記33章7−11節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
この聖書箇所には、出エジプトと呼ばれる出来事のエピソードの一つが記されています。
イスラエルの民は、かつてエジプトという大きな国で奴隷のような扱いを受けていました。そこで神はエジプトからイスラエルの民を導き出して、カナンと呼ばれる土地へ定着させようとされます。
そのためにモーセというリーダーを立てて、イスラエルの民をエジプトから導き出されます。しかし、彼らはエジプトからカナンまで荒野の中を40年旅しなければなりませんでした。この荒野の40年の旅路の中で起こった出来事を出エジプトの出来事といいます。
先ほども申しあげましたが、神は出エジプトの出来事を起こすに当たってモーセをリーダーとして選ばれました。モーセは神に召し出され、イスラエルの民をエジプトから導き出すために、エジプトの王と交渉し、民の心をまとめてエジプトを出で立ちます。
そしてまずシナイと呼ばれる山に赴きます。そしてモーセは、このシナイ山の麓に人々を集めそこに宿営し、しばらくの間シナイ山に留まらせます。そこでモーセは、単身シナイ山に登り、かなりの期間山にいながら神との交わりの時を持ち、神の戒めの言葉を授かるのです。
一方、モーセが山に登ったきり帰ってこないことを不安に感じたイスラエルの民は、自ら金の子牛を作り、それを拝み、偶像礼拝に陥るのです。
そこで、そのような事態を神から知らされたモーセが、山を降りて民の元に戻ってみると、イスラエルの民が、金の子牛を拝み、偶像を礼拝している姿を目にします。そのために、モーセは嘆き、イスラエルの民の背神を指摘します。
すると、イスラエルの民は悔い改めて神に立ち返ることを決断します。そこでモーセは、民の罪が赦されるようにと、神に執り成すために、神の前に出るのです。このモーセの執り成しの働きの一つが本日の聖書に記された出来事になっています。
まず「モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。
モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。
モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。」
と語られています。
モーセは臨在の幕屋を作り、そこで神と親しく語りあったのでしょう。そしてそのような交わりの中でイスラエルの民のために執り成しをし続けたのではないかと思うのです。それほど、モーセと神との交わりは親しく深い交わりであったのでしょう。
モーセは神との親しい交わりの中で、神を神として、神に従って行きました。神はわたしたちにも神を神として生きることを求めておられます。
そして、神に向き合い神を神とするわたしたちに、神は必ずや、生きて働かれる神であることを証ししてくださいます。また、神は死をも超えて、わたしたちと向き合ってくださり共にいてくださることを教えてくださいます。
このように生きて働かれる神を知る。そこにわたしたちの喜びの一つがあるのでしょう。
2024年 4月28日(日)10時 30分
復活節第5主日
標語 イザヤ書 43編19節
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 ヨブ記19・25
讃美歌 19(み栄え告げる歌は)
交 読 詩編106・1-5
主の祈り (93-5)
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙 5・16-26
祈 り
讃美歌 432(重荷を負う者)
説 教 「聖霊の実」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 339(来たれ聖霊よ)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「聖霊の実」
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙 5・16-26
本日は、ガラテヤの信徒への手紙5章16−26節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて、この聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙ですが、この手紙は、AD54年ごろ使徒パウロによって認められたものだと言われています。
ちなみに、パウロがこの手紙を書き送ったガラテヤという地域ですが、この地域は現在のトルコ共和国の中央に位置する地域です。かつてこの地域にパウロは伝道し、多くの教会が建てられました。
ところが、そうした教会の中にいつの頃からか、パウロが語り教えた福音とは異なる教えを解く人々が入り込みました。彼らは、人は割礼を受けてユダヤ人のようになり、ユダヤ教の律法を守らなければ、救われないし、神に愛されず認めてもらえないと説いたのです。
ガラテヤ地方の教会には、そうした主張に流されて、割礼を受けたり、ユダヤ教の律法を守ることに心を向ける人々が出てきました。また、教会の中に分派・分争が生じていました。
こうした状況を知ったパウロが認めたのがこの手紙です。そこで、パウロははっきりとした言葉でその主張を記してゆきます。
パウロは語ります。割礼を受け、ユダヤ教の律法を守り、ユダヤ人のようになることによっては真の救いは得られないと。ただ、イエスを救い主を信じ、イエスをあなた方の救いのために遣わして下さった神を信頼する信仰をもつことでしか救われないと。
そして、こうした手紙の終盤にあたって本日の聖書箇所に記された教えを語ります。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」
ここでパウロの語る肉とは、人が生きて行くときの拠り所や立ち所に関することであると言えるのではないでしょうか。
ガラテヤの教会の人々は、イエスを救い主と信じ、神に信頼し神に拠り所を持つというところから離れて、ユダヤ人のように割礼を受け、ユダヤ教の律法を守るという目にみえる印や自分の力に信頼し、そこに拠り所を持とうとしました。それがパウロから肉に従う生き方と批判されているのです。
一方、パウロは、霊に従って生きるということを勧めます。この霊に従って生きるという生き方、それはイエスによって救いがあたえられていることを信じ、イエスを主としてイエスに信頼し、イエスとの交わりに拠り所を持って生きる生き方であると言えるのではないでしょうか。
また、霊に従って生きることは、霊に従って歩むことですから、一度きりのものではなくて、継続していくものであると言えるのではないかと思います。イエスに信頼しつつ、いつもイエスのもとに立ち返りながら生き続ける。それが、霊に従って生きるということなのではないでしょうか。
そうした、肉に従って生きるのではない、霊にしがって生きるわたしたちを神は、支え励まし導いてくださるでしょう。
「霊の導きに従って歩みなさい」