日本キリスト教団
浦安教会
2025年 10月12日(日)10時 30分
神学校日
聖霊降臨節 第19主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
司 式 笠田 弘樹 牧師
前 奏 黙祷
招 詞 ヘブライ人の手紙 13・8
讃美歌 17(聖なる主の美しさと)
交 読 詩編 19・1-7
主の祈り (93-5)
聖 書 コヘレトの言葉 3・1-13
祈 り
讃美歌 515(きみのたまものと)
説 教 「神さまの時」 酒巻 百合恵 神学生
(日本聖書神学校 3年)
祈 り
讃美歌 533(どんなときでも)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「神さまの時」
聖 書 コヘレトの言葉 3・1-13
神と人が出会うこと。これは神様から私たちに与えられる最大の賜物(たまもの)であり、最大の時です。
これからどのようなことが起こるかは誰も知ることができません。けれども私たちは覚えている限りの時を振り返り、そこで神様が何をしてくださっていたのか、これを再び味わってみることができます。
例えば、真っ暗闇のなか、ひとつだけ輝いている一本のろうそくの火が灯(とも)っている。実はそれは、昼間も変わらずあったけれど、夜に暗くなって私たちがようやく必要としたあかりです。
私たちからは光を放つことができないけれど、その火のあかりに照らされてかすかに私たちも光ることができる。神様の愛とはそのようなものだと私は思います。
コヘレトの言葉 3章11節にある「永遠を思う心」の「永遠」は、ある出来事が心の中で決して忘れることのできない、かけがえのない「時」として永遠になっているという意味でもあるかもしれません。
いまや永遠となっている、それぞれの「時」。ここにイエス・キリストはあかりを灯(とも)していてくださいます。私たち一人ひとりにとって忘れられないほど嬉しかった「時」、悲しかった「時」にイエス・キリストはそのそばにあかりを灯(とも)し、私たちとその出来事を照らしていてくださるのです。
その「時」は、まさにいまを生きる私たちから離れず「永遠」にそばにあるかのように感じることがあるかもしれません。そこで私たちが忘れてはならないのは、イエス・キリストのあかりがその出来事、今を生きる私たち、そして未来をも変わらず照らし続けているということです。
神様の時は、まさに賜物(たまもの)です。神さまというあかりに照らされながら、私たちがいかにその出来事とともに歩むか、これをこの「時」という賜物(たまもの)は、備えられているのです。
神様から与えられる一方的な生きる力、賜物(たまもの)、時を用いて、私たちは生かされていきます。そして、喜びも悲しみもあらゆる時が人生のなかで永遠になっていくならば、イエス・キリストのあかりに照らされながら、そこが祈りの場になっていくことが必要ではないでしょうか。
「永遠」となった祈りの場所で、私たちはそれらの出来事を通して、他の誰かを思いやる。その永遠のなかで神様がどのように世界を動かしてくださるのかを待ち望みたい。
そして、その永遠となった出来事がいまを生きる私たちにとって「互いに愛し合う」ための教えであるなら、さらにイエス・キリストのあかりをその出来事と私たちに近づけてさらに光を強くあててみるのです。
そして、そこで思うことを祈り、苦難のなかの喜びをともに探し出すために「神さまの時」のなかでともに祈り合いつつ、今週を歩んでまいりましょう。
2025年 10月5日(日)10時 30分
聖霊降臨節 第18主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 マタイによる福音書 11・28
讃美歌 16(われらの主こそは)
交 読 詩編 119・33-40
主の祈り (93-5)
聖 書 マタイによる福音書 19・13-15
祈 り
讃美歌 492(み神をたたえる心こそは)
説 教 「イエスの祝福」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 521(とらえたまえ、われらを)
使徒信条 (93-4)
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「イエスの祝福」
聖 書 マタイによる福音書 19・13-15
本日は、マタイによる福音書19章13−15節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて聖書箇所には、イエスが子どもたちを祝福されるという出来事が記されています。イエスが地上での宣教活動をされていたある時。人々に神の言葉を語っておられると、そこに子どもを連れた大勢の人々がやってきてイエスの周(まわ)りを取り囲んだというのです。
彼らは「イエスに手を置いて祈っていただくために」子どもたちを連れてきたのだといわれています。子どもの親たちは、イエスから子どもへの祝福をいただくことを目的としてイエスのもとにやってきたのです。
今から2000年近く前のパレスチナの地域では、子どもたちは社会の中で最も弱く、最も傷つけられやすい存在でした。子どもたちはいつも真っ先に飢饉や戦争や病気や混乱の犠牲になりました。
そうした、状況の中で幼い子どもを持つ親は、子どもたちに悪しき力がついて、命を落とすことのないように、高名なラビ・イエスに、両手を置いてもらって、神からの守護を貰いたいと思っていたのではないでしょうか。彼らはイエスに祈祷師のような働きを期待したのでしょう。
それに対して弟子たちは彼らを叱(しか)ったというのです。多分、多忙なイエスに、幼子の親たちが期待する祈祷師的な働きをさせるのは忍びないと思ったのでしょう。
また、神の御心を宣(の)べ伝える大切な働きをされているイエスの周(まわ)りに子どもが群がるなどあってはならないと考えていたのかもしれません。この場に子どもは相応(ふさわ)しくない。子どもは邪魔であると思っていたのではないでしょうか。
ところが、イエスは弟子たちに対して言われます。
「子供たちを来(こ)させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。こうして弟子たちをたしなめられるのです。
イエスは子どもの存在が、神との交わりに生きようとする者たちにとって、大切なメッセージを与えているというのです。
そして、そのメッセージとは、子どもの信頼性、受容性です。子どもの姿を通して、神との関係の中で、神から無条件に差し出されたものを受け取るということがいかに大切であるかが教えられるということなのではないでしょうか。
神の祝福を無条件に受け入れて、信頼し、その祝福の中に生きる。そこに神との交わりの中で生きる歩みが形成されてくることをイエスは告げられているのではないでしょうか。
そして、イエスがここで告げようとしておられる神の祝福。それは、神がわたしたち一人一人をかけがえのない存在として見ていてくださっているということです。また、あなたはわたしの大切な娘であり息子であるといっていてくださっているということです。
神の祝福、それはわたしたちの存在の根本に関わることです。わたしの存在が神によって肯定されている。それが祝福の本質です。イエスは、神の祝福と、その祝福に信頼して生きる時にこそ、真実な神との交わりが築かれてゆくことを示されたのです。
わたしたちは神から祝福された者です。そして神から祝福された者として、わたしたちの周(まわ)りにも祝福をもたらす者となってゆきたいと思います。