日本キリスト教団
浦安教会
2025年 11月2日(日)10時 30分
永眠者記念礼拝
降誕前 第8主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 詩編 100・1-2
讃美歌 20(主に向かってよろこび歌おう)
交 読 詩編 51・1-11
主の祈り (93-5)
聖 書 マルコによる福音書 7・24-30
祈 り
讃美歌 516(主の招く声が)
説 教 「信じて望むなら」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 458(信仰こそ旅路を)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「信じて望むなら」
聖 書 マルコによる福音書 7・24-30
本日は、マルコによる福音書7章24−30節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて聖書箇所には、主イエスと、一人の女性とのやりとりを中心にした出来事が記されています。
イエスは、神の御心を宣(の)べ伝えるための宣教活動をされていた当初、ガリラヤ湖畔の町や村を巡って活動をされ、ユダヤの人々に向かって福音を語っておられました。そういう意味では、イエスの活動範囲はそんなに広いものではありませんでした。
しかし、時折ガリラヤ地方を離れて、他民族の領地に足を踏み入れることがありました。この聖書箇所に記されている出来事もガリラヤ地方を出て、フェニキアと呼ばれる民族の領地に行かれたことが前提になっています。
イエスは、ガリラヤの北方に位置するフェニキア人の領地にあったティルスという町に赴かれて、喧騒(けんそう)から少し身を引いて休息を持とうとしたのでしょう。
ところが、ティルスの町にもイエスの評判が届いていたらしく、イエスがティルスの町に来たことが町の人々に知れ渡ってしまいました。
そこで、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」というのです。
この女性は、治癒者として名高いイエスになんとかして娘を癒(いや)してもらいたいと願っていたのでしょう。
しかし、イエスはこの女性の願いを聞くと、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答えられるのです。それは今、あなたの求めには応じられないということです。
すると、この女性は「主よ、しかし」と言って「食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」と返すのです。
この女性は、イエスの言葉を聞いて「そうですか、残念です。」と言って退いてしまうことをしないのです。主よ、しかしと言って、なおイエスと向き合うのです。
このイエスへの信頼と求め、それに応えてイエスは語ります。
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。
こうして、この女性の姿を通し、信仰とは何かということの一端が語られているのではないかと思うのです。イエスと向き合い続けてゆこうとすること、それが信仰の一つの姿なのではないでしょうか。
なぜなら、そこには、イエスが生きて働いてくださっているという信仰があるからです。イエスは生きて働いていてくださっているという前提なしに、不断にイエスに向き合い続けるということは意味を持たなくなってしまうでしょう。
本日の聖書箇所の中でも、イエスはこの女性とのやり取りで当初の言葉を覆して、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言うのです。
それは、イエスとの交わりは生きているものであるということを語っているのです。この出来事には、生きて働いておられるイエスを自分の中心に置くことを選び取る恵みが語られているのではないでしょうか。
2025年 10月26日(日)10時 30分
降誕前 第9主日
標語 イザヤ書30章20-2節
「あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る」
礼拝の順序
前 奏 黙祷
招 詞 イザヤ書 43・1
讃美歌 19(み栄え告げる歌は)
交 読 詩編 19・1-7
主の祈り (93-5)
聖 書 マルコによる福音書 10・1-12
祈 り
讃美歌 481(救いの主イェスの)
説 教 「天地創造の初めから」 笠田 弘樹 牧師
祈 り
讃美歌 355(主をほめよ わが心)
使徒信条 (93-4)
頌 栄 25(父・子・聖霊に)
祝 祷
後 奏 黙祷
( 讃美歌は『讃美歌 21』)
説 教 「天地創造の初めから」
聖 書 マルコによる福音書 10・1-12
本日は、マルコによる福音書10章1−12節に記されたみ言葉に聞いてゆきたいと思います。
さて聖書箇所には、離婚というテーマで交わされた論争の出来事が記されています。
イエスはガリラヤでの宣教活動を終えて、エルサレムへと向かう旅路に出られます。その途上でもイエスはイエスのもとに集まってきた群衆に向けて福音を語って聞かせられるのです。
すると、そこにユダヤ教のファリサイ派に属する人々がやってきて、イエスに尋ねるのです。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と。
ただ彼らは、心底から、この問題に関してイエスからの見解を聞いて、自分たちの生活に生かそうと望んでいたわけではありません。イエスを試すためにこの問題を持ち出したということが言われています。
それに対して、イエスは「ハイ」でも「いいえ」でもなく、質問で応答されるのです。すると、イエスに問い返された人々は、すぐさま「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。
そこで、イエスは語られます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
こうして、イエスは離婚が合法か違法かを答えず、また離婚ができる理由などにも言及することなく、結婚の本質を語られるのです。そして、神の創造の中における人と人の関わりが結婚という仕方に表されているというのです。
結婚は、一人の人と一人の人が向き合って生きるものです。この差し向かいの関係、それが神の創造の意図を示しているということなのではないかと思わされるのです。
イエスはここで離婚の是非や、離婚の正、不正などについて教えようとしているのではありません。イエスは離婚という質問から結婚というテーマへと話題を変えて、人間の本質を教えようとされているのです。
人は神によって造られている。人は神の愛をその命に吹き込まれて造られている。そして人と人との対話の中で、またなによりも神との対話の中で命を輝かすことができるようにされているというのです。
ところが、一方で人は愛ではなく自己中心・エゴイズムという罪にとらわれています。しかし、神はそうした人間の本質をよくご存知であり、罪の赦しと救いのみ手を差し伸べてくださっているのです。イエス・キリスト、この方こそ神の差し出してくださっている手です。
わたしたちがイエスを信じ受け入れ、このイエスに聞き従って生きる時、そこに神とわたし、人と人との交わりが回復してゆく道が備えられてゆくのです。
そして、神によって対話の形に作られた人間本来の生き方へと導かれてゆくのです。そこで生き生きと命を輝かせてゆくことができるというのではないでしょうか。
イエスはここで、人間の本質の一つを結婚というテーマをもって教えておられるのです。
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。」